「乱読のセレンディピティ」を読んで発見した4つの思いがけないこと

スポンサーリンク

 

「乱読のセレンディピティ」を手に取った。

「思考の整理学」で有名な外山滋比古の著書、「乱読のセレンディピティ」を読んでみました。

なぜ、この本を買ってしまったのか。それは、この書籍のキャッチコピーに惹かれてしまったからです。

思いがけないことを発見するための読書術

ですよ??「日々、思いがけないことを発見しようと試みているぼくにぴったりだ」と勘違いするのは時間の問題でした。気がついたらレジにこの本を運んでいましたよ。

そこで今日はこのキャッチコピーにちなんで、

「乱読のセレンディピティ」を読んで発見した4つの思いがけないこと

という記事を書いてみました笑

以下がぼくが発掘した思いがけないことたちです。

  1. 読書の思いがけない特性
  2. 編集という仕事の思いがけない本質
  3. 空気が読めないことの思いがけない本質
  4. 散歩・忘却の思いがけない効用

それでは上から順番にみていきましょう。

 

1.読書の思いがけない特性とは・・・

一つ目に発見した思いがけないことは「読書」の特性です。今回発見することができた読書の特性は大きくわけて2つありました。

Sponsored Link

一つには、金を出費したか否かで書籍の内容の吸収率が異なる、ということです。図書館から借りた本や他人に媚を売って借してもらったは、いくら読んでも自分のためにならないそうです。著者の外山さんは次のように、クスリと書籍を比較して論を展開しています。以下引用です。

”貰ったクスリは効かない”、という。クスリはやはり買うべきでものである。
本はクスリほどありがたいものではないが、やはり、金を出して買うのがすじである。もらった本はおもしろくないものだ。

たしかに貰ったクスリってなんだか効かない気がしますよね??なんだか副作用だけ作用しそうな気がしてしまって笑

二つ目に、「距離の美学」です。外山 滋比古さんは次のように文中で述べています。

読書にも距離の美学がはたらく。

これはつまりどういうことかというと、身近な人の文章を読んでは効果が薄れる、ということです。つまり、すごく身近な人の文章を読むことは本来の読書とはかけ離れてしまう、というこです。性格や性癖など詳しい情報を知っている知己が執筆した文章を読んでも、感心するのは難しい、ということです。

ぼくも小学校から友人が執筆した小説を読もうと努力しました。しかし、登場人物の名前が彼の友人の名前と酷似していたり、主人公があまりに著者の友人に似ていたりすると、読む気が失せてしまいました。なるほど。だからこのブログもぼくとは全く関係のない、あったことがない読者の方(できれば美人)に読んでもらいたいですね笑

 

2.編集という仕事の思いがけない本質

最近、よく友人からこう言われることがありました。

おまえ、編集能力があがったのお

ぼくはあまり編集という仕事を理解していなかったので

あ、ああ

という曖昧な返事しかできませんでした。しかしながら、この「乱読のセレンディピティ」を読んで編集の仕事の本質を少しだけ理解することができました。以下引用です。

 編集は他に類のない仕事だと思ってきたが、そうではなく、料理人も編集に近いことをしているのではないか、と思ったのである。料理に使う素材は料理人がつくるのではない。材料を調理して食べものにするのである。執筆者の書いた原稿を、うまく組み合わせて面白い誌面にする編集と通じるところがある。

それをきっかけにして、エディターシップの概念をつくり上げた。第二次創造論である。第一次創造論は、素材をつくる。しかし、それだけでは読者の欲する読みものにならないことが多い。そこで、第二創造の出番である。適当な加工を加えると、第一次創造になかった価値が生まれる。

つまり、ライティングした素材(第一次創造)を調理して、うまそうに見せる(第二次創造)というわけですね。なるほど、本当にわかりやすい編集の解釈です。ただ、ぼくの場合、記事の執筆も自分でやってますし、編集もぼくがやっています。その意味で、第一次創造から第二次創造までを全部ひっくるめて背負っていることになります。どうりで時間がかかるわけですね笑 でも、この書くと編集するという作業が無茶苦茶楽しいのでいつだって、何時間でも続けることができそうです。ふえい!

 

3.空気が読めないことの思いがけない本質

空気が読めない、よくそう言われます笑。なんだか自分で言葉にしてみて悲しくなってきましたね。。。

この「空気が読めない」ということは一体どういうことなんでしょう!??

仙人だってスーパーマンだって空気を読むことは不可能なはずです。だって、空気って文字じゃないですから。そんな素朴な疑問に著者の外山 滋比古さんはこう答えています。

日本語はアイランド・フォーム、つまり島国的性格を帯びている。国境で他国と隣っり合わせになっている国のコンティネンタル・フォームとは対照的である。両者の論理が大きく異なるのは当然である。

アイランド・フォームの国ではかなり濃密で互いによくわかっていることが多い。コンティネンタル社会では相手が未知であることが多く、警戒が必要である。アイラえンド・フォームの国では、一をきけば十はともかく、五や六までわかっていることが少なくない。

コンティネンタル社会のことばの論理が、ライン、線上であるとすれば、アイランド・フォームのことばの論理は点的であるということができる。

点と点は、受け手によって、結びつけられる。点と点が直線的な並び方をしているのはおもしろくないから、蛇行上に点が飛ぶ。コンテクスト(文脈、前後関係)をとらえていない受け手には、これを読み”解く”ことができなくて、わけがわからなくなったり、間違った筋として受け取る。アイランド・フォーム社会は、そういうのを野暮として相手にしないのである。

え?!ぜんぜん「空気が読めない」ということを解説していないですって!??

たしかにそうですね。ただ、日本語でいう「空気が読めない」とはもう少し学術的に言えば「コンテクストが読めない」ということになります。つまり、場の前後の文脈を読まずに発言したり行動すると、「空気が読めない奴」という烙印を押されるわけです。

しかし、この「空気を読んで欲しい文化」は日本で特に強いとされているそうです。なぜなら、日本は島国だからです。島国である日本は全国民がほぼ同じ環境で育ち、同じ考えを持っている、という前提を丸のみしています。そのため、1を耳にしたら10を推測するだけでなく、その間のさじ加減である5や6をも推測せねばならない、ということになります。

逆にアメリカなどの大陸文化(コンティネンタル社会)では、皆が一様である、という考えはまるっきりありません。そのため、誰かにものを教える際にも知識ゼロ状態でも理解できるように1から10まで丁寧教えます。そして、実際に使用するのは1か10のみ。つまり、イェス・ノーの世界。途中のあいまいな表現はすべて排除しています。

これが日本の島国性が「空気を読め文化」の一端であるというわけです。なるほど。だから、ぼくはアメリカにいたときのほうが生き生きしていたのかもしれませんね。

 

4.散歩の思いがけない効用

最後に外山 滋比古さんは散歩の効用を解説していました。散歩という有酸素運動が運動不足解消につながりメタボリックシンドローム予防につながるのは想像がつきますよね。

この「乱読のセレンディピティ」という本では、散歩が「知識メタボリックシンドローム」にも効き目があると解説しています。以下が引用です。

知識を取り込みすぎ、それを使うこともなく、頭にためておくと、知的メタボリック・シンドロームになるのではないか。知識は有用であるが、消化し切れない知識をいつまでもかかえこんでいると、頭は不健康な肥満になるおそれがあるだろう。

人間の脳は知識を既往するためにのみあるのではなく、新しいことを考え出すのが大切なはたらきであると考えるようになったのである。しかし、どうしたら、新しい考えを生み出せるか。本を読むだけでは充分ではない。それどころか本を読みすぎると、知識バカになるおそれがあるということに気づいて自分でもおどろいた。

そして、散歩を見なおした。体のためだけではなく、新しい思考をするためには、机に向かっていてはいけない。外へ出て、あてどもなく歩いていると、新しいアイディアが浮かぶ。

ふむ。つまり、新しいことを考え出すには読書だけでは無理だ、ということですね。たしかに知識を詰め込めば詰め込むほど、枠にはまった考えしか捻出できなくなります。これを打破するのが散歩だというわけです。ぼくは散歩が嫌いですが、ランニングが好きです。著者が主張している散歩の効用がランニングのそれと酷似していました。散歩が嫌いでしかも時間がない、という困った方はランニングをオススメします笑

 

 

以下、「乱読のセレンディピティ」より引用です。

ふう、適当に書評っぽい記事を書いてみました。この書籍を購入しようか迷っている方!もう買って損はないと思います。だって、本はクスリと同じで自分で買わないと効き目が少ないですからね笑

それでは、また今度。最後に心に残った引用をのせておきます。

Ken Sawai

 

本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。
書物は心の糧である。

セレンディピティ(serendipity)思いがけないことを発見する能力。とくに科学分野で失敗が思わぬ大発見になったときに使われる。

どうも、人間は、少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより、軽い気持ちですることの方がうまく行くことがある。なによりもおもしろい。このおもしろさというのが、化学反応である。真剣に立ち向かっていくのが、物理的であるのと対照的であるといってもよい。

 

 

LINEで送る
Pocket

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です