乙武洋匡さんの講演会(大学で学ぶ君たちへ)をきいて一言

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乙武洋匡さんの講演会に吸い込まれた。

五体不満足。

この自伝書を読んだのは、ぼくがまだ小学生の頃だったと思います。読書が死ぬほど嫌いだったあの頃、ぼくは嫌々彼の著書を読んでいました。したがって、今日まで一切合切、「乙武洋匡」という言葉に対して良い思い出を持っていませんでした。正直に言うと、です。

しかし、すべてのことを一度試せ、という誰かの格言を思い出し、乙武洋匡さんの講演会に脚を運ぶことにしました。そのため、ぼくにとって彼との接触は10年ぶり、2度目ということになりました。

乙武洋匡 講演会

 

気になる乙武洋匡さんの講演内容は?!?

講演会のタイトルは、「大学で学ぶ君たちへ」です。

桜が散り、春の匂いが残る4月の終わりにふさわしく、その内容は新入生に向けてのものでした。

まさに、これから大学生になってしまった日本人の学生たちに良い学生生活を送ってほしい、という想いが大学の主催側にあったのでしょう。

彼の講演内容は大きく分けて以下の2つでした。

 

 

1.学ぶことから「生きる力」へ

乙武さんはまず、講演会のタイトル(「大学で学ぶ君たちへ」)から次の問いかけをしてきました。

「学ぶってなによ?」

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というあの哲学的な問いです。当然、この難解な問いに瞬時に解答できる猛者はおらず、会場に集まった聴衆の顔面は困惑で埋め尽くされていたこでしょう。

その大衆の困惑をみとって、彼は1967年に文部科学省が定義した「生きる力」についての話をし始めました。そして、義務教育はこの「生きる力」というものを生徒に身に着けるさせることが目的だというのです。

ぼくは恥ずかしながら、この「生きる力」というものを耳にしたことすらありませんでした。文部科学省が制定した教育の定義なんぞやらにだって、興味すらありませんでした。もう義務教育を通過し、さらに人生を厭世的にとらえている輩からすれば、これから日本でそだつ若者がどんな教育を受けようが構わない、とすら思っていました。

この「生きる力」とはWikipediaによると、

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

とあります。長々と定義されていて全く読む気をなくしますねww 乙武洋匡さん自身もよくわからない、と嘆いていました。そこで、乙武さんは、講演会の中で次のように定義しなおしていました。

生きる力とは、自分でどう生きるのか決める力

なんとなく大学に進学している大学生や、ぼくのようにいい年をしても具体的な夢を描けない方は、自分で生き方を決めていないというのです。周囲の友人が大学に行くからぼくも行く、みんなが大企業に就職するからぼくもしたい、といったようにすべての決断を他人の意志や価値観に身を任せています。

このような人は「生きる力」が身についていない、とおっしゃっていました。

 

平成の夜明けに生まれたぼく。今年で24歳になるぼくにってはこの言葉はかなり重く響きました。

24歳になっちまったけど、何一つ自分で生きる力が身についてねえ・・・

大学生(院)生活が合計で7年ぐらいになろうとしているぼくは、何一つ大学で生きる力を身についていないことに気が付きました。漠然とした憧れと両親の薦めで、機械工学を専攻したぼく。そして、ものづくりが肌に合わないことを初年度から感じながらも行動に移さなかったぼく。結局、周囲の友人と同じ選択肢をとり、好きでもない機械工学の大学院の学生になってしまったぼく。

そのすべてのぼくを振り返ってみても何一つ「生きる力」が身についていない、と感じてしまいました。

もうここまで学費を捻出してれた両親にも顔向けできないできません。しかも、その嫌々勉強してきた機械工学の道には進まず、ノマドが夢だと言っている。これにはぼく自身、自分の言動をむちゃくちゃ恥じました。マジョリティにはなりたくない、と言っているにも関わらず、その型から外れきれていない自分。もう超ふがいないっす。

 

 

2.教育の問題点と未来

乙武洋匡さんのお得意分野である教育についても触れていました。

彼自身、杉並区の小学校で教鞭をとった経験を話してくださいました。

今の生徒は、

自分で考える癖ができていない、

と言っていました。たとえば、休み時間にトイレに行くときにも教師に許可をとる。授業中にノートのページを新しくしたらいいか教師にたずねる。

そういった子供に対して乙武洋匡さんは驚愕し、さらに危機感を感じたそうです。

たしかに。今日の学校教育では生徒はすべての権限を教師や大人に任せていました。ぼく自身も、先生に気に入られていれば安心。両親が良しと言っていることを継続していればよし、というような生き方をしてきました。そのため、学校が主催する暗記テストでは暗記力を駆使していい点を取り、大人がノーといったものには手を出さないようにしていました。

でも当の本人である小学生や中学生たちは、その文化が当たり前なので疑問すら抱きません。学校という環境で最も賢く生きる方法が「自分の意思を持たない」、ということだからです。

この義務教育の特徴がほんとうの「生きる力」を身に着けることに繋がっていないのではないか、と言いたいわけですね。うむ、だからぼくのようないい加減な学生が沢山いるのかもしれませんね(笑)

 

そこで、乙武洋匡さんは例として道徳授業の科目化の問題について触れていました。

この授業で当たり前の常識(家族は大事、友はいいよ)のようなことを生徒に教えるのではなく、逆に常識とされていることを疑うことを生徒にさせる授業にするべきだ、と主張していました。たとえば、「ウソをつくことはいいことか」などです。その理由として、人生に答えがない問いがイッパイ出現するからだそうです。たしかに、学校の授業のようなイェス・ノーで答えを出せる問いなんて存在しませんよね。よほど切羽詰らないとですよね。

このような道徳の授業を幼いころから経験していれば、人生で何か答えのない困難に直面したときに自己責任で解を見つけることができます。ぼくも乙武さんの授業をうけたかったです笑

 

乙武洋匡さんの講演会に行ったら〇〇

乙武洋匡さんの講演会はいろんな意味で参考になりました。

個人的に一番心に響いたのが

自己責任

という言葉。マジョリティに身を任せるも、マイノリティな道に挑戦するも自由だということです。しかし、乙武洋匡さんが口を酸っぱく主張していたのが「自己責任」ということ。つまりは、自分がこうしたいからこの道を選んだ、こういう夢・野望があるからこの仕事についた、のような決意のようなものが必要なのだと感じました。

いやあ、乙武さんの講演会にいってこんなに自己嫌悪に陥るとは思いませんでした笑。

いや。頑張ります!おしゃべりエロダルマに負けぬように頑張っていきたいですね。

それでは。

Ken Sawai

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